掃除と片付けは幸運をよぶ
東京・調布の風水インテリアセラピストさとしも

自己紹介|家をキレイにすることで好転してきた私の人生

こんにちは。さとしもです。

自己紹介のページへ訪問してくださりどうもありがとうございます!

これから自分の生い立ちと、このブログを立ち上げるに至った経緯を書こうと思います。
長いので、興味のないところは読み飛ばしてください!

お時間のある方は、最後までお付き合いくださると光栄です。

「狭くて汚い家」がコンプレックスだった子供時代

私は1972年に神奈川県横浜市で生まれ、2歳で神奈川県横須賀市に引っ越しました。

横須賀の家は、2DKのマンションで、両親と一つ下の妹との4人暮らし。
広さはおそらく50平米程度だったと思います。

実家は、お風呂はカビカビ、ヌメヌメ、浴槽はザラザラ。
冷蔵庫は詰め込み過ぎてブラックホール状態。平成10年頃に賞味期限が“昭和”の七味が出てくるレベルです。

収納はどこもパンパン、ぎゅうぎゅう。
ガスコンはベタベタ、シンクには常に洗い物が残っているイメージでした。

母は掃除・片付けが苦手。妹も苦手。父はきっとできるタイプだったのですが、家事は一切やらない人でした。
(そんな母も、今や掃除も片づけもきちんとできる人になっています!詳しくはコチラ

そんな私が何故掃除・片付け好きになったかと言うと、おそらく家が汚かった反動ではないかと・・・。

そしてもう一つ、以下の褒められた経験が大きかったのではと思います。
幼稚園の頃、遊び半分で掃除機をかけたところ、両親が揃って

「お姉ちゃん偉いね~!!」

と絶賛してくれたのです。

2人そろって褒めてくれることは滅多になかったので、とっても嬉しかったことを覚えています。

自分の引き出しをキレイに片づけていると母が褒めてくれ、幼馴染からも、「私もさとしもちゃんのようにお片付けが上手くなりたい!」と言われたりして、
私の頭の中では、

「家をキレイにする=いいこと」

の公式が出来上がりました。

最初は頑張って(小学生ながらも)あちこち家の中をキレイにしようとしましたが、家族が散らかして元の汚い状態に戻っていくのでだんだん嫌になり、私はいつしか自分のテリトリーを厳格に決めて、タンスの自分専用の引き出しや勉強机のみ整理整頓するようになってしまいました。
(今なら、散らかす家族がいても、家が狭くても、片付けしやすい仕組みをあれこれ考えられますが、当時はそこまでの知識はなかった。)

小さい頃は平気で友達を家に呼んで遊んでいましたが、小学校高学年くらいになると、友達のお宅(戸建て、マンション、団地)と比べ、自分の家が狭くて部屋がごちゃごちゃしているのが分かってきて、恥ずかしくて呼べなくなりました。

人間関係について、大事なことは小学六年生で学ぶ

小学六年生は私の人生の中でもターニングポイントでした(早っ!)

私は8人くらいのグループにいたのですが、今考えると陰湿で、些細なことをきっかけにして、グループ内の誰か一人がその他のメンバーに無視されたりすることが度々ありました。

別の子が無視されていたときは、「さとしもちゃんもあの子を無視しよーよ」と言われると、別に彼女に嫌なことをされたわけでもないのに(!)、ちょっとよそよそしくしたりして、嫌なヤツでした。

人の陰口を言ったりすることに、当時罪悪感もなく。。。(ひどい!)
ひどいことをした私に、天罰が下るのは時間の問題でした。

あれは忘れもしない秋の修学旅行。
旅行中に私が言ったことがきっかけでした。

確か夜に、「もう寝ようよ~」とかそんなことだったかと・・・。

「私たちは起きてたいから布団でもかぶって寝れば?!」とグループのリーダー格の女子に言われ、次の日から私が無視のターゲットに。

前日まで普通に話してた友達が急によそよそしくなったり、完全に無視されたり・・・自分が過去にやったことそのままそっくり自分に返ってきました。

「なんてバカなことをしていたんだろう!」

悲しくて情けなくて、修学旅行から帰ってきた日、母の前でボロボロ泣きました。

母からは、次のようなことを言われました。

  • 人の悪口を陰でこそこそ言うのはおかしい。そもそも本人を目の前にして言えないようなことは言ってはいけない。
  • 「○○ちゃん、嫌だよね~」と友達に言われても、自分がそう思っていなければ、絶対肯定しないこと。そこで、相づちを打ってしまうと、「さとしもちゃんも、○○ちゃんのこと嫌だって言ってたよ」って勝手に変換されてしまう。
  • グループの中にいなければダメ、という意識を捨てなさい。一人で行動できる人になりなさい。(当時の小学六年生女子は、トイレに行くのも友達と一緒でないと“友達がいない人”、みたいに見られましたから・・・^^;。)

その後、私はグループと距離を置き、一人で行動する練習を始めます。

1人行動にも大分慣れ、グループの人たちの動向が気にならなくなってきた頃、また別の子がターゲットになり、私に対する無視はいつの間にか終わりました。

「あの子最近ムカつくから無視しよーよ」とリーダー格の女子に言われても(昨日まで無視してたくせに、いきなり話しかけてくるのが今思うと不思議)、「えーと、私はムカついたこと・・うーん・・・ないかなあ~」とぼやっとはぐらかし、二度と無視には加わりませんでした。

今アラフィフですが、これまでの人生であの時ほど人間関係で悩んだことはありません。
そして未だに、誰かと一緒でないと行動できない人、誰かの陰口を言ったり、噂話が好きな人が非常に苦手です。

 

小学六年生の教訓を生かし、中学時代は特定のグループに加わるのが怖くて、誰とでも仲良くなろうと八方美人に徹していました。

高校へ入ると、周りに恵まれ自然体でいられることが増え、のびのびと過ごせるようになりました。コツコツと勉強していたら、成績も上位になることができ(といっても学区のトップ校とかではない)、自分に対する信頼、というか自信が少~し生まれてきました。

大学は希望していたところに指定校推薦で入り、勉強、バイト、旅行サークル、デートと、学生生活を満喫しました。大学2年の夏休みに、アメリカでホームステイできたこともいい思い出です。

おそらく私の人生のバイオリズムを描くとしたら、このころ、高い位置につけていたことは間違いありません(笑)。

が、しかし。

就職活動で大きな挫折

私が入学した時(1991年)は、まだバブルの余韻が残っていたのですが、年を経るごとに景気が怪しくなってきて、4年生になる頃には、完全に就職氷河期と呼ばれるようになっていました。

高校も、大学も、トップ校ではないですが自分の希望通りに進めていたので、当然就職もなんとかなるだろうと思っていましたが・・・全くなんとかなりませんでした

大量の資料請求ハガキ(時代を感じますね)を出し、いくつものセミナー、会社訪問に行きました。

10社、20社、30社、と落とされ続けると、

「あなたは社会に必要のない人間だ。」

と言われている気がして、本当に落ち込みました。それまでの学生生活がツイていたので、その落差は大きく、ダメージが大きかったです。

当時は”引き寄せの法則”も知らず、

「どうせまたあの会社も受からない。私はダメなヤツなんだ。」

と常に考えていたし、口にも出して呟いていたので、本当にその通りのネガティブな結果が次々と起こりました。

とうとう私は大学の就職課で探すのを諦め、ハローワークで自力で探し、ようやく卒業直前で小さな会社に就職が決まります。

「よし、この会社で一生懸命働いて頑張るぞ~!」と、就職活動がえらく長引いた分、これから始まる社会人生活に並々ならぬ気合が入っていたのはよかったのですが・・・。

頑張り過ぎて精神的にダウン、わずか入社9ヶ月で退職

入社した会社は、大手商社を脱サラした40代男性が立ち上げた、北欧家具の輸入商社でした。

社長と、海外留学経験のあるバリバリ仕事ができる30代女性上司と私の三人だけです。

社長も幼少の頃から海外生活が長く、二人ともある意味外国人のように意見をぶつけ合います。純日本人の私から見ると、ケンカのように激しいこともしょっちゅうで、

「さとしもさんはどう思う?」

と意見をいきなり聞かれてしどろもどろになっていると、いつの間にか二人の間では解決していてケロッとしています。

強烈な二人に振り回される日々でしたが、「私を採用してくれたありがたい会社だから、一生懸命頑張ろう!」とエンジン全開で取り組みました。

貿易関係の仕事がしたかった私は、輸入の実務を中心に仕事ができると期待して入ったのですが、それはほんのほんの一部でした。

平社員が私だけなので、輸入業務の他、社長のスケジュール管理、不良品家具のチェック業務、会計事務所に提出する伝票の処理、プレゼン資料の準備、電話の応対、備品の買い出し等々多岐にわたり、3か月も経つと、だんだん息切れしてきました。

バリバリ女性上司からは、「3か月の試用期間も過ぎたので、これからはもっといろいろやってもらいます。」とハードルを上げられ、「できません」とも言えず、悩みを共有できる同僚もおらず、プレッシャーでどんどん精神的に落ち込んでいきました。

会社員生活は長距離走なのに、自分の将来を描けるような少し年上の先輩や相談できる同僚が周りにいなかった私は、完全に短距離走になっていて、一人突っ走り、あっけなくバテました。

やっと就職できたのに、なんで私はこうなんだろう・・・。

ずぶずぶと就職活動時のようなネガティブな思考にはまっていきました。
2人がいないときは、泣きながら仕事をすることも。

当時は間違いなく人生のバイオリズムの底だったと思います。

食欲がみるみる落ち、食べたくない、お腹が空かない。
何を食べても全然美味しくない。
「食べる楽しさ」ってあったんだ、とその時初めて知りました。

身長156センチなのですが、一番ひどいときは体重が38キロ台まで落ちました。

歩くとすぐ疲れる、スカートはウエストが合わずクルクル回ってファスナーが前にきたり、ブラジャーのホックがすぐ外れてしまい、困りました。

どんどん落ち込んでいく私を見て、社長が知り合いの心療内科の先生を紹介してくれました。予約が入っている日は、仕事を早めに切り上げて病院に行かせてもらい、そのまま帰宅していいから、と言われました。

とってもありがたい対応をしてもらえていたのだな、と今は素直に思いますが、当時は悲劇のヒロイン真っ最中なのでそれすら気が付かず、「心療内科に通うとっても不幸な私」、としか思っていませんでした・・・嗚呼。

心療内科の先生と、社長からは、

「過去と他人は変えられない。変えられるのは今の自分なんだよ。」

と全く同じことを二人に言われたのをよく覚えています。

結局、その会社で働き続けるのはやはり厳しいと判断し、9か月で退職することに。。。

大学時代から4年間付き合っていた彼とも、ほぼ同時期に別れたので、親しい友人からは「(仕事も恋も同時に失い)なんかドラマみたいだね。」と言われました(苦笑)。

仕事を辞めたら別の悩みが

仕事を辞めた翌日、

「これで私は自由だ~!!!!」

とものすごく開放感を感じました。

しかし、退職したら私は無職になったわけで、私はこの「無職」という状態が今度はとても辛くなってしまいました。(ネガティブのスパイラル状態ですね・・・。)

「皆は今頃働いている時間なのに、私は家にいて、一体何なんだろう」・・・今度はそんなことを考え出して凹みました。かといってまだ就職活動をするエネルギーはなく、悶々と過ごします。

「就職したら、その会社に3年はいるべきだ。すぐ辞めてしまうのは、我慢が足りない人だ。」

「高校→大学→就職→結婚、と人生のレールに確実に乗ることこそ、私が求める幸せの道だ。」

と当時の私は信じて疑わなかったので、こんなに早くも人生のレールから外れてしまったことに、大きな挫折を味わい、自己肯定感が下がり続けていきました。
自由な時間を楽しむ、という気持ちは全く起こらず、減っていくだけの貯金に大きなストレスを感じ、本当に視野が狭―い人間でした(苦笑)。

無職の期間中、一つだけ大きなイベントがありました。

大学2年の時にお世話になったアメリカ・オレゴン州のホストファミリーがまた遊びにきていいよ、と言ってくれたのです。

昼間は家族全員(両親と娘2人)が仕事と学校に出かけてしまうので、私一人。
お菓子を頬張りつつMTV(音楽番組)をダラダラと見たり、バスに乗ってウインドーショッピングに出掛けたり、下のお嬢さんの学校を見学させてもらったり。

アメリカでは私が無職とかどうでもいいことなので(と自分で勝手に判断)、とっても気持ちがラクになり、体重はあっという間に元に戻りました。

ある週末、ホストファーザーとワシントン州の山にハイキングに行きました。
鳥の鳴き声、川のせせらぎ、木の葉のすれる音・・・その景色すべてに癒されました。

大自然の中に身を置いて、やっと私は、

「なんで私は、こんなに自分で自分をがんじがらめにしていたんだろう。」と気づきます。(遅すぎ!)

ホストファミリーの優しさに触れ、アメリカの大自然に身を置いたことで、私のエネルギーは自分でも驚くほどの回復をみせ、帰国後2週間程度で再就職を決めました。

種まきの時期

新しい就職先は、横浜の小さな信販会社の派遣社員でした。

大学時代の3年間、全国展開の信販会社で営業事務のアルバイトをしていたので、正社員としての職歴はほぼないに等しかった私でも採用してもらえたのです。

正社員を目指すのは後回しにしてとりあえず働き、まずは安定した収入を得て精神的に楽になろう、と思いました。

派遣社員の間に英語のスキルアップを目指すことにし、仕事の合間や通勤時間、帰宅してからもひたすら勉強しました。大学が国際学部だったのに、当時英検2級しか持っておらずコンプレックスを抱いていたからです。
最初に入った商社でも英語はそこそこ使ってはいたものの、実力が全然足りませんでした。

今は種まきの時期。コツコツ努力して、いつか花を咲かせよう。

と決意したら、少し明るい未来が見えてきました。

真っ暗なトンネルを抜けつつあった時期でした。

とあるパンフレットとの運命的な出会い

参考書を一冊につき最低5回は繰り返し解くようにして、20冊以上こなしていくと、TOEICのスコアは500点台から600点台、700点台、800点台、と順調に伸びていきました。

そろそろ派遣の仕事を辞めて今後のことを考えよう、と思っていた頃、大学生の時に学内で見たパンフレットと全く同じものを、偶然入手します。

「あ、これ、見たことある・・・!」

海外ボランティア募集のパンフレットでした。

イギリスのボランティア団体が、国内外から幅広くボランティアを募集していて、イギリスでボランティア活動をすると、食事、住まいは提供された上、毎週お小遣いが支給され、半年間働くと1週間有給休暇も貰える、というプログラムです。

「一生に一度は海外で暮らしてみたい」、という気持ちは大学生の頃からあり、当時そのパンフレットを読んだときは、最低3か月最長1年という滞在条件で諦めた経緯がありました。どうやりくりしても留年することになるからです。

そのパンフレットを目にするなり、

「これだ!!!!」とひらめきました。

今なら行ける!絶対行ける!

うまく言えないのですが、自分の中のどこかのスイッチが押された感覚というか・・・。
じわじわと心の奥底が盛り上がってくるというか・・・。

この、偶然再会したパンフレットによって、私の人生が大きく動き出しました。
25歳のことです。

私の人生を大きく変えたイギリスでの1年間

イギリスに行くぞ、と決めてからの私は、ネガティブ全開だった頃とは打って変わって、非常に前向きに日々過ごすようになりました。

プログラム参加費用や、渡航費、現地での滞在費(現地で支給されるお小遣いだけでは心もとないので)を貯めるため、派遣の仕事の他に家庭教師のアルバイトも始めました。

そして、あのパンフレットと再会してから約9か月後に渡英。

4週間ロンドン北部で語学研修を受けた後、

ベッドフォード州の小さな村で右半身麻痺の60代女性の一人暮らしを住み込みで支援したり、

ロンドンのホームレスのデイセンターで働いたり、

知的障害のある人達のグループホームで働いたりしました。

詳細に書くと、自己紹介が今の倍の長さになるくらい、いろいろあったので割愛しますが、悔しいこと(主に自分の気持ちをうまく英語で伝えられなかった故、ですが)、悲しいこと、楽しかったこと、全てが日本にいるときより濃かった気がします。

・自分の気持ちをきちんと表現する
・何事にも期待しない
・落ち込むことがあって、「今がバイオリズムの底だ」と思っても地下1階、2階、とさらに底があることもある

と、なんともネガティブな表現ですが、これらを身をもって体験した海外生活で、私の人生を変えた出来事の一つです。
すぐ落ち込んだり、凹んだり、精神的に弱かった私が少ーしタフになったと思います。

最初の会社で心療内科に通うくらい精神的に参ったあの頃より、さらに孤独で、精神的に打ちのめされた出来事も正直ありました(多分、今までの人生の中で一番激しく泣いたかも)。
しかし前回より、落ちても這い上がるまでの期間が短くて済んだような気がします。

約3年遅れでスタートラインに

帰国後、短期の派遣社員として働きながら、「今度こそ正社員」を目指して就職活動を始めました。2次試験になかなか受からなかった英検準一級にも、この頃やっと合格しました。

最初の会社をあっという間に辞めた私は、「正社員じゃない自分」をずっと「まだ一人前じゃない、中途半端だ」と思っているところがあり、最初の会社の嫌な思い出を、別の会社の経験で上書きしたくて仕方がありませんでした。

新卒で味わった超ネガティブ就職活動よりは、今回自信と度胸をもって臨めたことも幸いし、アメリカの国際複合輸送会社(正社員)とドイツのメーカー(契約社員)から採用通知がきました。

落ちまくっていた新卒の時では考えられない事態です。
人生、タイミングが上手くあうと、こんな贅沢なことも起きるんだ・・・と感激しました。

会社の規模はドイツの会社の方が断然大きかったのですが、正社員になりたかった私は迷わずアメリカの会社に行くことにしました。

新卒で働いている友人たちより約3年遅れてのスタートです。

夢がかなった?サラリーマン生活

前の会社で同僚もいなかった私は、今回中途採用で初めてできた同期二人の存在にえらく感激し、前は自分で自分の給料明細を作っていたのが、今は経理部の人が作成してくれたものを貰える、という、そんなえらい小さなことでも嬉しく思いました。

仕事は忙しくストレスも多々ありましたが、前回と違って、同じように仕事を頑張っている同僚が周りにいるので、そこまで辛くありませんでした。
前の会社でたった一人の平社員だった私にとって、同僚の存在はそれはそれはありがたいものでした。

当時は占いを除きスピリチュアルなことに殆ど興味はなかったのですが、「幸せのハードルが低ければ低いほど、幸せをたくさん感じられる→さらに幸せを感じる出来事を引き寄せる」ということは体感していたように思います。

1人暮らしでキレイな部屋をキープ。恋愛運上昇♪

イギリスで一人暮らしデビューをしたので、帰国後実家暮らしが窮屈になり、再就職が決まってから数ヶ月で都内で一人暮らしを始めました。

引っ越しは、車を持っている友人達にお願いして少しずつ運んでもらったのですが、その友人の一人が今の夫です。

夫とは、ネットで知り合いました。

今考えるとちょっと(いやかなり)怖いですが、当時はその手の犯罪の話も殆ど聞かず(私が知らなかっただけ?)、親しい友人がネットで知り合った人とお付き合いしていたので、あまり深く考えていなかったです・・・(汗)。

リアルで会ったのはおそらく2回目くらいなのに、引っ越し時、横須賀の実家と引っ越し先の両方に連れて行き、自分の両親にも会ってもらうという、今考えると大胆な行動をしていました。

1人暮らしを始めてから一番嬉しかったのは、
「自分が散らかさなければ、部屋はキレイをキープできる」ことです。
実家で暮らしていた頃はありえませんでした。

仕事から帰ってきても、部屋がキレイだとイライラせずホッとできる。

部屋に貼ったお気に入りのポストカードを眺めていい気分になれる。

当時は、六畳一間のアパートが私のパワースポットでした。
そのお蔭で恋愛運もよかったのだと思います(ちょっとこじつけ?)。

夫と付き合い始めて約1年半後、28歳で結婚しました。

付き合っている頃、
「結婚した途端、「釣った魚にエサはやらない」っていうダンナさんは嫌だよ」
と彼に言ったら、

「うーん(ちょっと考え込んで)、そういう考えはないなあ・・・あ、一緒に泳ごう!

魚と釣り人が一緒に泳ぐ・・・この彼の発想に脱帽し、結婚する決め手の一つとなりました。本人は言ったこと、覚えてないみたいですが。

結婚してからも、今まで通り働き続け、朝は夫よりも早く家を出て、帰りは彼より遅いこともしばしば。

そして、結婚してから一年半後に妊娠が分かりました。
どのタイミングで会社に切り出そうか迷っていた頃、なんと昇進の話が舞い込んできます。
その時に「実は・・・」と妊娠した旨上司に伝えると、その話は速攻なかったことになりましたが。

子宮内膜症の治療を経ての妊娠だったこともあり、嬉しかったことは間違いないのですが、仕事も充実していた私にとって、妊娠期間中はこれからどうしようかと、迷いの時期でもありました。

結婚してもその会社で働き続けているのは私が第一号で、出産しても働き続けている人は皆無です。

そもそも上司がワーキングマザーに批判的だったのを独身時代から知っていたので、この会社に出産後も居続けることは無理だな、と思いました。

朝のラッシュ時、慌てて電車から降りようとした人のカバンが、少しだけ目立ってきたお腹に危うく激突しそうになり、通勤が怖くなってしまったことと、いずれは辞めなきゃだめだなと諦めの気持ちから、妊娠6ヶ月で退職することにしました。

暗黒の専業主婦時代

だんだんお腹も重たくなってきた頃だったため、専業主婦になった1週間くらいは開放感を感じ、楽しく過ごしました。が、あっという間に飽きました(苦笑)。

多分、私はかなりの貧乏性なのだと思います!

とにかく落ち着かない・・・。
専業主婦がつまらなくて仕方がありませんでした。

料理を頑張ってみたり、お菓子を作ってみたり・・・奥様向けの雑誌を図書館で大量に借りてきたりと、「専業主婦」をインストールしようと試みましたが、やればやるほど虚しくなるばかり。

毎日時間があっという間に過ぎていき、海外ともつながりのある前の仕事が好きで、充実していました。
経済的に自立していた、という自負も大きかったのかなと思います。

息子を出産し、子育てで忙しくなっても、どうにかして働くことはできないかな?そんなことばかり毎日毎日考えていました。

晴れてワーキングマザーへ

「子供が幼稚園に入るまでは家にいたら?」

と言っていた夫も、私が働きたいとばかり言うので、子供が1歳になるまでは家にいて欲しい。1歳を過ぎたらできる範囲で協力する、と言ってくれました。

仕事を見つける前にまずは預け先だ!と情報を集め、近所の無認可保育園の空き待ちリストに入れてもらいました。

3月生まれの息子がもうすぐ1歳になろうとする頃、認可保育園に移った子供たちの空きが出て、晴れて預け先が決定。

仕事は、「貿易に少しでも絡む業務で、育児と両立できる残業のほぼない会社」という、非常にわがままな条件で粘って探しました。
ある大手派遣会社では担当者に呆れられ、馬鹿にもされましたが、それでも何故か諦めませんでした。

しばらくして、就職サイトで損保会社の海上保険に関わる派遣の仕事を発見。
海上輸送中に事故があった時の保険金の査定と支払い業務のアシスタントです。無事採用が決まり、晴れて働けることに。

新卒時の就職活動で辛かった故、ここまで粘れたのだと思います!

風水のおかげで憧れの会社に転職。今度は取れた産休・育休

息子の病気の時は夫と協力して乗り切り、仕事と育児のメリハリがついて、暗黒の専業主婦時代とは一転、忙しいけれど充実した毎日に変わりました。

働き始めて1年くらい経った頃、前の会社の同僚から、ある外資系海運会社のサイトに求人が出ているよ、と教えてもらいました。

前の会社で様々な海運会社と取引があり、その中で一番印象が良かったところです。
「この会社で働けたらいいなあ~」と、当時からなんとなく憧れを持っていました。
早速その会社へ、今は子供が小さくフルタイムでは働けないが、アルバイトやパートで募集はないかダメ元で尋ねてみました。

すると、今はそのような募集はないが、もし何かあったら連絡する旨返事がきました。

「だめだったか、そうだよねー」と、あっさりこのことは忘れ、損保会社で引き続き働いていたら、数か月後、例の会社から「新たに部署を立ち上げることになったので、パートで働きませんか?」というメールが届きました。

面接に行き、いかに前に勤めていた会社で御社の印象が良かったかを社長の前で熱く語り、時短且つ残業なしの契約社員、という願ったりかなったりの形で採用が決まりました。

風水にも興味を持ち始めていた頃で、家を片づけて掃除をし(風水の基本!)、各部屋のラッキカラーにもインテリアに無理のない範囲で気を配っていました。

私は単純なので、「風水は本当に効果があるのかもしれない」と、さらに風水関係の本を読むように・・・(笑)。

その海運会社で働き始めて約1年半後、第2子である娘を妊娠します。
(2人目は思うように授からず、病院に行ったり、子宝風水を実践したり、女性ホルモンに作用するサプリをアメリカから取り寄せたりいろいろ試しました。)

今度は勤めていた会社で産休・育休を無事取得でき、「期間限定の専業主婦」を満喫しました。

憧れの会社に就職でき、娘も生まれ、家族仲良く、幸せを感じながら毎日を過ごしていましたが、娘が生まれてちょうど半年後、夜中にかかってきた妹の電話から状況が変わっていきます。

父の急死、母の緊急手術、さらに夫が・・・

妹からの電話は、父が倒れて呼吸が止まっている、もう助からなさそうだ、というものでした。(両親は父の定年退職後、二人の故郷である北海道へ引っ越していて、妹も札幌で就職・結婚していました。)

子供たちを連れて札幌に遊びに行った2か月前は特に何もなかったのに。

母によると、夜寝ようとしていた時に隣の部屋で大きな音がしたので見に行くと、父が意識を失って倒れていた。救急車で病院に行ったけれど、既に呼吸は停止していたと・・・。

今日の夜まで普通に母と会話をしていた父が突然いなくなる。
正直訳が分かりませんでした。心不全との診断でした。

実家にいた頃は、お酒ばかり飲む父が嫌いでした。(お酒が入っていないと、真面目な人でしたが。)
その反動で、お酒が苦手な夫と結婚したくらいです。

あれだけ父が嫌いだった私なのに、父の遺体を見て号泣、葬式で号泣、多分、母や妹よりも泣いていたかもしれません。

突然の父の死はショックでしたが、死んで姿はないけれど、どこかから私たちを見てくれているに違いない、という「妙な安心感」を覚え、気が付けば乗り越えることができたように思います。

2008年の1月に娘が生まれ、7月に父が亡くなり、12月には母が心臓の緊急手術を受けました。
それまで特に心臓に持病があったわけでもない母が、心臓の血管から出血して倒れ、かなりの大手術だったそうです。
仮に命が助かっても麻痺が残るかもしれない、脳に障害が残るかもしれない等、妹は病院から聞かされたそうですが、運よく後遺症もなく退院できました。
父が助けてくれたのかもしれません。

父、母、ときて、今度は夫にアクシデントが襲います。

精巣ガンでした。

2009年の春、脇腹の痛みがひどく病院に行くと、ガンが進行していて両肺に多発転移・・・その痛みだったようです。今まで殆ど病院に行くこともない、健康な夫だったのに。

精密検査の結果、ステージ3b。末期(3c)一歩手前まで症状が進んでいました。
当時息子は小学校に入学したばかり。娘は1歳。「お父さん」とまだ言うこともできないくらい小さいのに・・・。

地元の大学病院に即、入院しました。

あるとき、娘を抱っこし病院の廊下を歩いていたら、ナースステーションにいた主治医から不意に呼び止められ、中に入って、と言われました。
ナースステーションの隅にあるモニターで夫の肺のレントゲン写真2枚を見せてくれ、
「左が入院した時のもの、右が今日撮ったやつ。ほら、2週間でこんなに増えてるでしょ?本人にはかわいそうで言えないけれど・・・。」
夫の肺のレントゲン写真には「雨でも降ったの?」というくらい白い点々が無数にありました。

その数が左の写真よりも明らかに右のほうが多い。
ガンがすごい勢いで肺に転移しているんだ・・・。

抱っこしていた娘に気づいた主治医に子供のことを聞かれ、
「6歳と1歳の2人です。」と答えた時、主治医が「あぁ・・」と言いながら天を仰いだ光景はいまだに忘れられません。

家族4人で過ごせるのは、当たり前ではなく、とても幸せなことなんだ。
ごく普通の生活って実は尊いんだな・・・。
こんな当たり前のことを私は知らなかったのか。なんてバカなんだろう。

いろいろな思いが頭をグルグルとまわり、おかしくなりそうでした。

ある日、会社の昼休みにフラフラと立ち寄った本屋で、ガン患者の家族の心得が書いてある本を見つけました。

「死んだらどうしよう、は、死んでから考えても遅くはない。今からいろいろ考える必要はない。」
「主治医や周りがたとえ諦めたとしても、家族は最後まで決して諦めてはいけない。それが家族というもの。」

このたった数行に、私は相当救われました。

それからは、ただ夫が治ることだけを考え、前を向く。
それだけにフォーカスするようになりました。
また、子供が小さかったこともあり、周りの人たちにも本当にたくさん助けて頂きました。

精巣ガンはかかる確率もレア(10万人に1人か2人)ですが、抗がん剤治療が効きやすい”curable cancer”であることも幸いし、右側精巣の摘出手術→約半年間の抗がん剤治療→両肺の残存腫瘍摘出手術を経て、めでたくガンサバイバーとなりました。
主治医からの勧めで、精巣ガン治療で全国的に有名な京都の大学病院に早い段階で転院したことも良い結果につながったのだと思います。

抗がん剤の副作用で末梢神経障害(手足のしびれ)が残っていますが、病気発覚から1年半後に職場復帰し、今はありがたいことに普通に働いています。

夫のガン発覚から「家をキレイに保って開運!健康!」を願って、家事、育児、仕事、夫の看病と4足のわらじをはきつつ、できる限り家をキレイにしていました。
この時習慣になったのは、毎日のトイレ掃除です。
(健康運と言えばトイレだな、と思ったので。)
どんなにドロドロに疲れていても、トイレだけは毎日欠かさず掃除をしました。

掃除をして家を整えていたおかげで夫の病気は治った、という証拠はどこにもありません。
しかし、ただでさえエネルギーが落ち気味になるこの状況を、家を整えることによってエネルギーの下降を食い止められた、とは確信しています。

断捨離・こんまりさん・引き寄せの法則に出会い、自分の内面に意識が向くように

再び家族4人の生活に戻れ、毎日ありがたみを感じて過ごしていたところ、自分からは何の働きかけもしていないのに、契約社員から正社員になることができました。

同僚、上司に恵まれたのと、数々の片付け本や風水本を読んで、できる範囲で実践していたのも良かったのだと思います。

40歳前後には、自己啓発に興味を持ち始めます。
フォトリーディングを習ってみたり、自分のパーソナルカラーを調べてもらったり、コーチングを受けたり。

断捨離やこんまりさんにも大きく影響を受け、「自分にとって今本当に必要なモノは何か、自分がときめくモノは何かを自問していくうちに、さらにモノが減り、スッキリした環境へと変化していきました。

この時期に引き寄せの法則も知ります。

自分がいい気分でいれば、さらにいい気分になることを引き寄せるのであって、外部の環境は関係ない、という考え方は新鮮で、とてもインパクトがありました。

仕事は若干紆余曲折ありつつも日々コツコツとこなしていました。が、入社して10年半くらい経った頃、次第に、

「私は定年までこの会社で働き続けたいか?」

と考え始めるようになりました。

憧れて入った会社でしたが、規模が大きくなって社風も変わってくるとだんだんそうでもなくなり・・・(苦笑)。

できる限り自分軸で過ごすようになったら、自分の中に何とも言えぬ違和感が増殖してきたのです。今までなら、安定した生活を手放すなど考えなかった筈なのに。

さらに「今辞めておいた方がいい」と、心の中から湧き上がるような感覚も出てきて、最後は直感に従い辞めることにしました。

2016年の夏でした。

外資系OLから家事代行へ

退職後の専業主婦生活ですが、今回は暗黒でもなんでもなく、たくさんの小さな幸せを感じることができました。

朝、家族に「いってらっしゃい」を言うことができたり(今までは私が一番に出勤)、

お日様の出ている時間に洗濯物をゆっくり干せたり(今までは夜に洗濯)、

空いている時間に銀行に行けたり(昼休みを削ってダッシュで行かなくて済む)。

この無職期間中のハイライトは、死ぬまでに一度行きたかった、アメリカ・アリゾナ州のセドナへ一人旅をしたことです。

何故セドナ?と思った方は、こちらをお読みください。アメブロにとびます。

少し前までは子供たちが小中学生(当時)なのに、母親が一人旅に出るなんて・・・と思っていましたが、自分が本当にやりたいことに正直になっていると、道は開けていくのかな、と感じました。

これも、片付けを通して自分軸で考えるトレーニングの成果かもしれません。

世界有数のパワースポットで一人過ごし、今後どうしたいのか、自分はどうありたいのか、自分に向き合った4泊6日となりました。

当時44歳だった私は、退職直後は年齢制限的なもので仕事が見つからなくなるまでは事務職を続け、その後は好きで得意な掃除と片づけに関わる仕事をしようかな、と漠然と思っていました。

が、セドナから帰国後、派遣会社に提出する職務経歴書を書いていた時に、「これは私がやりたいことじゃない」と、面倒になりあっさりやめてしまいました。
(今までの就職活動でこのように思ったことは皆無でした。)

そして、たまたま携帯を見ているときにポンと画面に出てきた家事代行会社の広告をなんとなくクリックし、なんとなく面接を受け、流れで研修を受け、気が付けば現場で働いていました。

50歳を過ぎてからでもいいと思っていた仕事に40代でデビューです。

面接を受けたときに、この家事代行会社は雇用契約ではなく業務委託契約だと聞きました。
サラリーマンでなんの不満もなかった私が、個人事業主になるとは思ってもみませんでした。本当に不思議なものです。

ついこの間まで、様々な国と関わるグローバルな仕事をしていた筈なのに、今は洗面所の髪の毛一本、お風呂場のカビに神経をとがらす、超ドメスティックな仕事に大転換。
パソコンのマウスを持つ手は、雑巾とスポンジを持つ手に代わり、ザ・肉体労働へ。

自分でもここまでの変わりようにやや戸惑いもしましたが、やってみると掃除と片づけの仕事は興味深くて楽しいのです。

伺った時には、テンション低めだったお客様が、キレイになった台所を見ながら、
「あ~、本当に気分がいいわ!ありがとう!」
と、ニコニコしながら言ってくださったり、

片付けで伺ったお客様が、
「散らかってもすぐに元のキレイな状態に戻せるようになり、片付けがラクになりました。」
「家族の雰囲気も良くなり、お仕事や人間関係などで良いことがたくさん起きました!」
と嬉しいお言葉をくださると、自分の好きなことをして喜んでもらえるなんて、私はなんて幸せ者なんだろう!と、じーんと感謝の気持ちでいっぱいになります。

整理収納アドバイザーの資格も取り、日々掃除と片付けの仕事を続けていたところ、家事代行会社から新人スタッフの研修講師をやってみないかと声を掛けて頂き、1年ほど講師の仕事も兼任していました。
まさか自分が人に掃除の仕方を教える日が来るとは思ってもみませんでした。

地元の知り合いの方がお客様を紹介して下さったり、SNSを通じて当ブログからお申込みを頂いたりと、今では家事代行会社を離れ、直接ご依頼を受けてお仕事をさせて頂いています。
本当~にありがたいことです。


<作業前のヒアリングの様子>

このブログを書き始めた理由|さいごに

様々なお客様のお宅に伺い、分かってきたのは、

・ごちゃごちゃなモノに溢れた家をどうにかしたいけれど、どこから手を付けていいのか分からない方が想像以上に多い

・片づけられない、家をキレイに整えておけない自分にコンプレックスを抱いている方も意外に多い

ということ。

今はごちゃごちゃしているけれど、本当は自分で管理できるモノの量まで減らし、掃除がしやすい快適な家で暮らしたい。

と願い、風水、開運などのキーワードにも少なからず興味がある方に向けて、何かモチベーションアップにつながる情報を届けられたらいいなあ、と思いこのブログを始めました。

私は、狭くて・汚くて・ごちゃごちゃして嫌いだった実家での暮らしから、掃除と片づけで「家を整える」ことを通して人生が好転していきました。

掃除と片づけはとても身近な開運行為です。そして、特に片付けは自己啓発のカテゴリーにも入ると思っています。

要る、要らない、とモノを分けていく行為は、モノを通して自分を見つめる行為です。

○○さんから貰ったから・・・。
△△はまだ使えるから・・・。

主語が人だったり、モノだったりするのは、他人軸による判断ですよね。
どこかの本に書いてあったのですが、他人軸基準でモノが捨てられない人は優しい人が多い、とありましたが、現場でもそれを実感しています。

自分はそれをとっておきたいのか、もう手放していいのか。

片付けが苦手な人によっては、ものすごく避けて通りたい、エネルギーを使うこの判断、本当に大事なのです。
自分軸で考えると、モノを厳選するようになるので、家に入ってくるモノの数が次第に減ります。入ってきても、すぐ気が付いて長期間溜め込まずに手放せるようになります。

雑誌やSNSで見かける、無印良品やIKEAの収納グッズでビシッと揃えた美的収納でなくても、ミニマリストでなくてもいいんです。

不要なモノが減ると掃除もしやすくなります。
そんなの当たり前でしょ、と思うかもしれませんが、ピンときていない方が意外に多いのです。

 

片づけで人生変わった

 

2021年、バグア風水を取り入れて掃除と片づけという身近な開運行為をさらにバックアップしたいと思うようになり、
Yuki Shimada International Feng Shui Design Academyで
「風水インテリアセラピスト」マスターの資格を取りました。

 

「キレイだな~」と自分が思う家で過ごすと気分が良くなり、その気分の良さがまた別の気分の良さを連れてくることを体感して欲しい。
そして、掃除、片づけや風水で(その人にとっての)「いいことあったよ話」が、縁あって当ブログを訪問してくださった方の、おウチを整えるモチベーションアップにつながったらいいな、と思いコツコツと記事を書いています。

おウチを整えて、あなたに大小様々な幸運がやってきますように。

ここまでながーーーい自己紹介にお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
あなたとのご縁に感謝します。

 

さとしも